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日常雑感 言葉の宙吊り、その先

『禅において《悟り》と名付けられているもの、これはおそらく、言語の空おそろしい宙吊り、
わたしたちの内なる「記号列」の支配を追い払う空白、わたしたちの人となりを構成する
内的詠誦の割れ目にほかならないの ではなかろうか。
この無言語の状態が一種の解放であるのは、二次的思考 (思考についての思考)の増殖・
あるいは余分な表徴化作用の行う終わりのな い補足-つまり言語そのものが
その行い手であるとともに規範である悪 循環-これが仏教的体験を閉塞するものだからである。
逆に、二次的思 考の廃絶こそが、言語の悪しき無限をうちくだく。これらの仏教体験の一切において、
たいせつなのは、言語をいわく言いがたいものの神秘的な沈黙のもとに押しつぶすことではなくて、
言語に「見切りをつける」ことなのであり、たえず象徴が執念ぶかく事物にとってかわろうとする
働きを独特の旋回運動のなかにまきこんで、表現へと導いてしまう言葉の独楽を停止させることなのである。要するに、そこにおいて攻撃の目標となるのは、意味論的作業としての象徴なのである。』
―ロラン・バルト「表徴の帝国」―

『存在の絶対無分節と経験的分節との同時現成こそ、禅の存在論の中心を成すものだ。
「無」とか「無心」というと、絶対無分節だけに重心がかかるけれど、それだけでは禅の存在論でもなく、禅の意識でもない。
絶対無分節者でありながら、しかも同時に、それが時々刻々に自己分節して、経験的世界を構成していく。
その全体こそが禅の見る実在の真相だ。無分節がそのまま、その全存在エネルギーを挙げて自己分節する。
無分節と分節との間に一毫の間隙も置かれてはならない。電光石火。無分節態すなわち分節態。
両者の間に一毫の間隙もないということは、しかし、「本質」の介入を許さないということだ。
「本質」が介入してこない、無「本質」のままでの存在分節、それが禅の問題にする存在分節である。』
―井筒俊彦「意識と本質」―


多分、あたしの意識が行ける場所は
存在の絶対無分節のあたりまで。
その先を目指さなくてはいけない。
禅の修行をしようというのではない。
言葉も感情も失わせる視えたもの、
さらにその先で、もう一度見ないといけない。
そこになにかがあるような気がする。
ないかもしれない。
でも、
考えていたって答えなんか出る訳がない。
常用レンズを28mmから
50mmに変えようと思う。

28mmは、見ないで視ること。
近付いても遠ざかる。
50mmは、視てから見ること。
離れて近付く。

あたしにとってレンズは、
そういうもの。



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by hitsuji_yu | 2012-11-03 14:25 | 写真


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